Angling Net / Topwater Bass Fishing

星の降る夜を徹して‥‥‥

獅子座流星群が大挙して夜空を焦がす中、夜明けを目指して阿波の国へ走った。今年最後のトップウォーターバス釣りをするために。

四国三郎の朝は清しい風が吹いていた。青い空には白いちぎれ雲が絵のようにぽっかり浮かんでいた。
秋の終わり‥‥‥一発出たらオッケイ。出たらデカいぞ。しかし、結論から言うと、出るには出たがそれだけだった。休むことなく投げ続けたが、とうとう竿は曲がらなかった。


■トップウォータープラッギングはなぜ面白いのか?
 ‥‥‥友人サル森田は次のように述べている。

ルアーをポイントへとキャストする時、自然とルアーに対して感情移入していることに気付いた。
リールのハンドルを回しロッドを操作する。激しくあるいはゆっくりと。騒々しく時には静かに。
そうやって手の内に操られるルアーは、自分自身であるといえる。ボートの上、あるいは岸にいる肉体はすでに抜け殻であり、魂はルアーの側にある。ルアーにアクションを与えている数秒間、魚を釣るための道具に変身しているのだ。
人間以外のモノになっている瞬間。この瞬間が楽しくて、僕はトップウォータープラッギングを続けているのかもしれない。

トップウォータープラッギングの面白さは色々あるけれど、自分の分身をポイントに送り込み、あたかも自分がその場で魚を誘き寄せ、直接魚と渡り合うような、そんなダイレクトな感覚が、魅力の一つなのだと僕は思う。
あえて舞台を水面という釣り人と魚のテリトリーの境界線に限定し、一見遠回りな釣り方でありながら、感覚的には自分が魚を直接獲りにいっているような、そんな釣り方。それがトップウォータープラッギングなのだと僕は思う。

なるほど‥‥‥
自分がトップウォータープラグになるのか。
バスに襲われる瞬間か‥‥‥想像しただけでドキドキする。


■魚釣りとは何か?
魚釣りとは、片方の先に魚が居て、もう片方の先に馬鹿者が居る状態である
ならば‥‥‥かかった魚をバラしてしまって、すでに魚が居ない状態は魚釣りではないのか? あるいは、心臓破りの炸裂音と豪快な水柱を残して魚が去っていった状態は魚釣りではないのか?
この命題にまたも悩まなければいけないのだが、私はあえて『それも魚釣りだ』と言いたい。

出て満足している自分と、獲れずに不満を感じている自分。両方が混在するこの不思議な感覚は、トップウォータープラッガーだけが味わうことの出来る感覚のような気がする。

‥‥‥と、サル森田は言う。
そうだ。まさにその通りだ。トップウォータープラッギングは出たらオッケイである。しかし、魚釣りとして考えるとそれだけでは何かが欠落しているのだ。

悦びと悔しさの両方を味わう‥‥‥か。
なるほど。そう考えるとトップウォータープラッギングは「お得」な釣りである。贅沢な釣りである。そんな贅沢な釣りを二十年も続けている私は、なんと幸せな釣り人であることか‥‥‥。


秋の終わりに、恒例の「今年最後のバス釣り」を内藤賢二とふたりでやりながら、ふとそんなことを考えていた。
日が短くなったとはいえ、夜明けから日没まで十時間以上水面に浮かんでいたにもかかわらず魚は一匹も釣れなかった。おそらく、釣れなかったことがそんなことを考えさせたのだろう。

未明に夜空を焦がした夥しい数の流星群といい、漆黒から濃紺、さらに群青へとうつろう見事な夜明けのグラデーションといい、なんと自然は美しく偉大なのだろう。釣れた釣れないと一喜一憂することが馬鹿らしく思えてくる。

日没‥‥‥
風がやんだ。
鏡のような川面は静けさを取り戻していた。
最後のポイントで儀式のようなキャストをして、今年が終わった。

空は淀みなく淡い紫紺に輝いていた。今沈んだ夕日の辺りだけがオレンジ色に染まっていた。


19 November 2001
Ikasas ikuy