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悪ガキというほどではなかったが

■ 武庫川で鰻を釣ること

近所に武庫川という二級河川があって、子どもの頃の遊び場のひとつだった。私は子どもの頃からこの川に親しんでおり、物心付いたころには父親や兄達に連れられてハゼやハスを釣って遊んでいた。

武庫川は暴れ川で、大水が出るとたびたび氾濫し流域住民を苦しめたらしい。今なお上流域では住宅地やゴルフ場の乱開発が続いており、大雨が降ると必ず土砂災害などが起こる川である。

中流域以降では武庫川が尼崎市と西宮市の市境になっている。遊び場は主に西宮市側の河口付近だった(時々越境して尼崎側も探検したことがある)。阪神電車の鉄橋から河口までの広大な河川敷は子どもの格好の遊び場になっていた。

ある夏の昼下がり、武庫川へウナギを釣りに行ったときのこと。

ウナギ釣りと言っても仕掛けは単純なもので、三尺ぐらいの竹竿の先に太い鉤素を二十センチ程出して、その先にドバミミズの付けたうなぎ鉤を結ぶ。それを石積み(今で言う消波ブロック)のすき間に差し込むだけである。竿先は水面上に出すため、深い場所に仕掛けるときは少し長い竿が必要であった。

仕掛けを数本セットしたらあとは河原でキャッチボールをして遊びながらアタリを待つ。ウナギがかかるとその竿先が異様に揺れるのですぐにアタリとわかる。
ウナギがかかると友だちと協力して取り込む。一人が岩の間からウナギの掛かった竿を一気に抜く。それに呼応してもう一人が間髪入れず網を入れる。息が合わないとウナギに逃げられる。絶妙のコンビネーションが要求される。
ウナギは意外と力が強く、一気に抜かないと大きなウナギだと岩のすき間に深く潜り込まれて抜き差しならなくなる。網入れをもたもたすると暴れてハリスを切って逃走されることもあった。
ウナギ以外にも、鯉、鮒、鯊などがかかることもある。しかしウナギ以外は値打ちがなかった。

その日もウナギは豊漁で、ブリキのバケツには子どもの手首ほどもある大物を筆頭に5、6本入っていた。こうして捕った獲物は家に持ち帰り、夕食のおかずになることがほとんどだった。子どもながら家計の足しになるようなこともしていたわけである。

河原でキャッチボールをしていると、夕刻、工場帰りのおっさんらが通りがかりにウナギのバケツをのぞき込む。

「このウナギどないしたんや」
「川で釣ってん」
「おっちゃんに売ってくれや」
「かめへんけど」
「なんぼや百円でええか」
「ええけど‥‥‥あ、いっちゃん大きいやつはあかんで」
「なんでや」
「持って帰って食うねん」
「そうか‥‥‥ほな五百円でどや」
「五百円やったらかめへんで」

かくして子どもの手首ほどもある巨大なウナギは五百円で売れた。当時の子どもの小遣いは、一日にせいぜい十円か二十円だったから、五百円という金額は破格のものであった。

その後、これに味をしめた私らは「うなぎ会社」なるものを設立し、川でウナギを釣っては売って小遣いかせぎをした。私は社長に就任し、部下の二人をこきつかいながら、じょじょにナワバリを広げていった。
持っていく仕掛けも最初は四、五本ほどだったが、五本が十本に、十本が二十本にと増えていった。多い日は出した仕掛けの半分ぐらいにウナギがかかった。一日に千円以上売り上げた日もあった。

ほかにもウナギを釣りに来る子どもはいたが、私らの仕掛けにばかり大物がかかったのには理由があった。餌である。私らのミミズは牛糞の中にいる赤いミミズだった。このミミズはぶりぶりに太っていて真っ赤な色をしていた。鉤に刺すとじゅわっと赤い汁が出た。たぶんこの汁をウナギは好んだと思われる。

その夏が終わって、秋が深まるころまで、私らはウナギ釣りに没頭した。どこでウワサを聞きつけたのか、どこからか大人たちがやってきて私らのナワバリでウナギを釣りはじめた。
しかしその頃にはもうウナギは釣れなくなっていた。水温が下がりすぎたのか、ウナギがどこかへ行ってしまったのか、はたまた私らがぜんぶ釣りきったのか‥‥‥定かではない。しかし、私らはその間にたんまり金をかせいだ。

次の年、私は中学生になっていて、武庫川で遊ぶことはほとんどなくなっていた。釣りに行くこともめったになかった。
それは、中学生になって始めた水泳の練習が忙しかったこともある。私の長い釣り人生の間で、中学校の三年間だけぽっかりと釣りの記憶が欠落している。たぶん他のことに興味がいっていて釣りを忘れていたのだと思う‥‥‥。


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